この地は水戸藩の江戸中屋敷があった場所である。明治2年(1869年)に新政府によって東京帝国大学(現:東京大学)の為の用地として公収された。
明治9年(1876年)に警視局(現:警視庁)の射的場として建設が開始され、明治10年(1877年)に開場した。
(当時は射撃練習用の場所を射的場と称したらしい)
明治15年(1883年)に宮内省の所轄となり、同年に小松宮彰仁親王を会長とする東京共同射的會社(会社=協会)が設立され、皇宮地附属地(帝室財産)の東京共同射的會社射的場となった。
以降、明治天皇の行幸が度々行われ、陸軍や警視庁、上流階級の者などによる射的会が行われていた。
明治21年(1888年)に会社と射的場は大森の山王に移転し、日本帝國小銃射的協会となった。
日本帝国小銃射的協会は、昭和12年(1937年)頃に學生射撃聯盟(大正14年(1925年)山川健次郎博士を会長として結成)を主軸とした他の一般団体と合併し、大日本射撃協会(会長:奈良武次)が設立された。
射的場の移転後は本格的な宅地化が行われ、言問通りが延長されて明治27年(1894年)頃には新たな坂が開かれ、この坂は地名をとって「弥生坂」と名づけられた。
また、射的場跡地の傍らを通ることと、この坂の下にはかつて幕府鉄砲組の射撃場が存在したために「鉄砲坂」とも称されている。
なお、「弥生式土器」は明治17年(1884年)に文京区弥生の地で発見されたことにちなんだ名称であるが、皇宮地附属地で立ち入り禁止であった当時の射撃場の中で発見されたのではという説もあり、発見場所は未だ明らかではない。